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Viaggio mosaico

〜モザイクをめぐる旅〜

ビザンチンの総本山 アヤソフィアその1

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アヤソフィアのモザイク群 イスタンブール トルコ

今回はいよいよアヤソフィアに入っていきます。

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入り口に平面図があったので条件反射で写真を撮ってしまいました。
ブログのときに役に立つかなと思ったのですが、モザイクのモの字もなく拍子抜け。
でもこの説明を見ていると、イスラム寺院としてのアヤソフィアがどんな風だったのかが見えてくるようです。

聖堂周りの敷地にはスルタンのお墓がいくつもあります。また神学校や厨房棟もありアヤソフィアを本山とした宗教施設の集合体のようになってました。
スルタンたちは宗教上の理由から聖堂のモザイクを漆喰で塗りつぶしてしまいましたが、躯体はあまり手を加えてないように見え、この建築物を大切に大切に守ってくれたように思えるのです。

入ってまず気になったのがナルテクス(前室)の天井です。ただ漆喰にペイントされていると思ったらよく見るとなにやらキラキラと輝く箇所があります。近づくとなんとモザイクで飾られてました!これがオリジナルの状態でしょう。調べたところユスティニアヌス時代のものだったようです。

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そして早速モザイク発見です。ナルテクス(前室)から本堂に入る入口の上にありました。

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キリストと皇帝(10世紀)

キリストに向かって跪く皇帝の姿を描いてますが、こちらの皇帝が誰かは定かでありません。
中央のキリストは左手に聖書を持ち、そこには「汝に平和あれ。私は聖なる月」と書いてあります。

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左のメダリオンに描かれているのは聖母マリア、右側は大天使ガブリエルです。

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さてメインの空間です。
本当なら身廊と呼んだらいいのでしょうか? 正教会の空間の名称がよくわからず表記が迷走しています。
入ってみてびっくりしました。とにかく空間が大きい!の一言です。変な話ドームだけの大きさで言えばもっと大きいものは他にもあるはずですが(パンテオンとか)圧倒されたのは空間の高さでした。
聖母子像は遥か彼方で私たちを見下ろしているようです。

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ベタだけどキリスト教とイスラム教の共演の構図で一つ。聖母子像とアッラーと記されたカリグラフィーです。
不思議ですが聖母子像はより遠く、カリグラフィーは妙に低く感じました。
ナルテクスと同じようにドームやアプスの天井部分がモザイクとペイントでまだらになってます。ここもかつては全部キラキラだったのでしょう。

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カリグラフィーが出てきたところで、モスクだった形跡をいくつかご紹介します。
聖母子像から少し右にずれた下のところにくぼみがあります。イスラム寺院の特徴であるメッカの方向を示すミフラーブです。そして右手の方にある階段のようなものは説教壇のミンバルです。

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中央にある大ドームのサイズは高さは約55m、直径は33m、実は楕円なのだそうです。
こちらはかなりの面積がキラキラしている模様。ここからでは見づらいので2階に上がってからゆっくりと見ましょう。
ドーム下の四隅のペンデンティブには羽で全身覆われた不思議な姿のものがいます。天使ゼラフィムです。

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モザイクは全般的にあまりに遠いので早速2階へと上がります。

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2階の廊下、ここまでくるといろんな装飾がすぐそばで見られます。
やっぱり思った通り随所でモザイクが見つかりました。
柱頭の彫刻も必見です。アカンサスの葉で装飾された中にユスティニアヌスのモノグラムが刻まれているそうです(気になる方はクリックで拡大)
3つのアーチの下にもアカンサスの葉のモチーフのモザイクがあります。

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そして改めて聖堂の広さを再確認です。
聖母子像は高さ5mほどもあるかなり大きなものですが、全体でみるとこんなにも小さく感じます。

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ここでちょっと順路を飛ばして聖母子像のアップです。
窓から朝日が差し込むため、どうしても下からの撮影は思い通りの色で撮れませんでした。

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聖母子像 870年代?

改めてじっくりと見た聖母子像は、体が大きいというべきか小顔すぎるというか、人間離れした体格をしてます。
聖母マリアの衣装はしっとりと深い紺色、幼いキリストは金髪に金色の衣装とどこまでも神々しいです。
肌の色も滑らかでツヤツヤで絵画のよう。技術を感じます。

こちらのモザイクがアヤソフィアの中で最古のモザイクなのだとか。
9世紀で最古とは私には不思議でしょうがなかったのですが、歴史の得意な方ならご存知ですよね。

ビザンチン帝国では8〜9世紀にかけて聖像破壊運動「イコノクラスム」という運動がありました。レオン3世と息子のコンスタンティノス5世の治世において文字通り聖像などを破壊し、また擁護派を弾圧していた時代があったのです。レオン3世は730年の勅令でコンスタンティノープル総主教をイコン破壊派に切り換えたため、東ローマが破壊派、西ローマが擁護派となり東西両教会分離の遠因となりました。

悲しいかな、モザイクの運命は東と西で大違い。
ビザンチン帝国ではそれ以前のモザイクはほとんど残らなかったのに対し、ラヴェンナやポレチュはイコノクラスムの影響から逃れ、今でもその姿を見ることができるのです。

多分学生時代に習ったと思うのですが、完全に記憶の彼方でした。
モザイクを通して知ると、なんとも生々しい出来事だったのですね。

次回はまた順路に戻って続きをご紹介します。

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